『室井摩耶子 百一歳のピアニスト』矢島多美さん著
この本を読みたいと思ったのは、昨年、百歳の室井摩耶子さんの『月光』を聴いたとき、“ぬくもり”を感じたから。
それまで聴いた『月光』は、”冷たさ”を感じるイメージでした。
人は誰でも老いる。
でも、演奏家が老いて101才になるって、どんな感じなんだろう。
4月に山野楽器銀座店でこの本を目にして、購入しました。(4/18の101歳のお誕生日直前に発売)
ここでは主に、室井さんの体についての記述を時代背景とともに、本からさらいます。
ベートーヴェン、バッハ、シューベルト、ドビュッシー、サティ、ルービンシュタイン、バックハウスetc
室井さんによる曲の解釈やピアニズム、著者による音楽に関する表現を、私が歪曲して書いては申し訳ない。
なので、是非本を買って読まれることをお奨めします。
見出し
著者、矢島多美さん
矢島多美さんは武蔵野音大卒業後、『ムジカノーヴァ』編集部で室井さんを担当されていました。
フランス、ソルボンヌ大学音楽学科に留学、夫で音楽評論の矢島繁良創設の日本ピアノコンクール運営、『ル・ピアニスト』の編集に関わる。夫の遺稿集、短編小説を執筆。
室井さんの私設秘書をされていらっしゃいます。
この本は、室井さん84歳から100歳まで、主にコンサートを中心に記したご本人納得の公式評伝。
ホロヴィッツにワンダ夫人がいたように、室井さんに矢島さんがいたのかも知れない。
室井さんは、矢島さんに「自信がない」「弾ける気がしない」と漏らしています。
ホロヴィッツ夫妻は仲は悪かったにせよ、ホロヴィッツは自分の演奏に、トスカニーニの娘だったワンダの感想が必要でした。
ドイツ語「ムジチーレン」とは,音楽するという概念、音楽語(する)、解釈(する)、音楽文法、演奏をつくる、という意味だそう。
本文よりー
60才でヨーロッパを畳み、日本に戻ってきて以来、「ムジチーレン」は89才までピアニストの道を歩ませた。トークコンサートという表現形式を編み「ムジチーレン」という営為を見える形で具現化してきたと、思う。
『室井摩耶子 百一歳のピアニスト』より
大正、音楽教育始まる
「ねえ、83歳だって、できるのよ」「次は前屈よ。見てらっしゃい」室井は躰を前に倒すと、右手の指先を左足の親指に届かせ、左腕を後背の天へと突いた。
室井摩耶子は大正十年(1921年)東京の田端で生まれた。2歳のとき起きた関東大震災の災禍をはっきりと記憶しているはずはない。
昭和元年、小田急線が新宿と小田原間を通る。
昭和二年、室井は成城学園に入学し昭和六年に成城の現在の処に、一家は落ち着いた。
最初のピアノの手ほどきは作曲家弘田竜太郎の妻でピアニストだったマリ子夫人に、10歳からドイツでクロイツァーの下で研鑽を積んだ高折宮次に師事した。
当時の音楽教育ではめずらしいことだそうだが、小学五年から和声、対位法を作曲家岡本敏明に習い始めた。幼稚園ではトミック教育を受けている。
父はラジオ制作の事業を興していたことから、室井は幼少期から蓄音機やラジオが身近にあったという。
女学生のとき、東京帝国大学生だった兄が死んだ(入ってすぐに結核のため)……
ピアノの音
「ひとの指は、もともと掴むものなのよ。拡げる方が力が要るわけね。この自然をピアノを弾くのに、利用するわけよ」
「1と4はこうして前に出るだけなのよ」と弾いてみせた。
「2と5にするのは、親指の音が出すぎるからですよ……指番号は響きのためにあるわけですからね。ペータース、ブライトコップも2、5ですが、それらだってベートーヴェンが譜ったものでないとしたら、ピアニストは響きのために考えるものですよ……」
20代、終戦
女学校を卒業すると同時に結婚の準備をすることが一般的だった当時、室井はピアニストになろうと夢中で、クロイツァーの下で研鑽を積み研究科を卒業した。(東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)卒業後、同校研究科)
翌1945年、終戦の年の1月、その頃クラッシックの殿堂、日比谷公会堂での日本交響楽団定期講演での協奏曲公演の最終日、日比谷一帯、空襲に見舞われた。
「学徒動員で出兵していく学生さんに旗を振ったときは、心震えました…あんなに大勢の若者が死にいくんですよ!」
「お友達のところに向かったんです。浅草寺前を亡くなった人たちが、次から次、リヤカーで運ばれてくるんです」
音楽学校の友との別れを短く語ったこの時を限りに、室井は二度と先の大戦の悲惨な記憶を展かなかった。
30代、ドイツへ
「ユネスコが催した『モーツァルト生誕200年記念祭』の日本代表のお話を機に、ドイツで勉強しようと思いました…どうしてと訊ねますよね。そうです。リサイタルはいつも満席で、成功していたのですから、疑問はもっともです。
わたしにはなにか足らない、焦燥感に駆られていたんです」
憧れのピアニスト、7歳年上の原智恵子はパリ・コンセルヴァトワールを卒業。
戦前にヨーロッパの土を踏んでいた演奏家たちは、戦後、真っ先に演奏活動を展開していた。豊増昇はバッハ、安川加寿子はショパンの演奏会。
室井の二十代を覆う戦後、ヨーロッパは隔たってしまいすぎた。
1950年代に入り、フランスからラザール・レヴィ、コルトー、ドイツからバックハウス、ケンプが来日。
任についたばかりの現在の日本音楽コンクール審査員、東京藝術大学の職など、すべてをなげ打って、1956年ウィーンへ。
奨学金の関係でベルリンに移り、ロロフ、ケンプの下で研鑽ぶりを自著『ピアニストへの道』で克明に、感動的に綴っている。
5年後39歳の室井は、ヨーロッパデビューを果たす。ベルリンでの初リサイタルでの成功後、ヨーロッパで演奏活動を展開していく。
ドイツにいた頃(美人!@@)
50代、ばね指
50代に入るやいなや、娘のピアニスト人生を見届けたかのように母が逝った。
10才下の弟は当時スイスの大学で職についていた。ひとりになった80歳の父を思えば、室井は迷ってはいられなかった。
日本とヨーロッパを行き交うことが頻繁になり、母の死から二年後、ばね指になった。
5年間リサイタルは開かず、勉強に当てた。
この間、楽譜をじっくり研究したと、再出発のリサイタルのプログラムに綴っているが、それはその後の活動を下支える財産になったと云えるだろう。
ドイツで活躍中だっただけに深刻だったはずである。
母の死から気持ちが帰国に傾いていたはずだったが、室井はふたりのバッハ演奏のビヒト・アクサンフェルト女史とウェーバージンケ氏の門を叩いた。
60代、帰国
1982年、室井は20年に渡るヨーロッパでの演奏活動を畳む。
シューベルトは60才の室井が猛烈に取り組んだ相手だ。
室井は、帰国時、熱い思いで引き寄せたシューベルトを十年の歳月を費やして、コンサートに載せたのだ。
「頑張りのきっかけは、ヨーロッパでギレリスを聴いたときだった。年取っても変われると思った。力が体中を駆け巡りました。ギレリスに本当に力づけられたんです。」
戦前から活躍していた大ピアニストたちの訃報が届くようになった。
室井の敬愛してやまないケンプは平成3年に没した。その翌年、父良平が百一歳で亡くなった。
70代、肺癌
70歳のとき、室井の躰に病が憑いた。肺癌である。手術はスケジュールのため三ヶ月先に伸ばしたが、成功し、癌の再発に見舞われていない。
平成八年(1997年)、こけら落としした東京オペラシティコンサートホールに室井は登場した。戦前から日比谷公会堂、戦後、東京文化会館など、日本の代表的なホールで演奏してきた室井にとって、平成生まれのステージで、教え子の井上道義の指揮でピアノ協奏曲を弾くことは感慨ひとしおだった。
80代、ロックドフィンガー、白内障
元がん患者は多忙で、アンチエイジングのため、ジムとかエステとかには行くことはしていない。マッサージも受けていない。
ストレッチ体操は、彼女なりに励行している。ピアノを弾くための体躯のしなやかさを厳しく保っている。
運転をしない室井は、歩くことが多い。84歳にして薬は一錠も飲んでいない。
85歳の姉のコンサートにスイスから駆けつけた弟はコンサート4日後に亡くなった。
弟の死はピアニストに二回めのモーツァルトコンサートを開かせた。
87才、転んで足首の捻挫をする。
「コピー用紙が落ちているのに気づかず滑っちゃった。病院、いかないわよ。安静にしてればいいことなんだから」
一週間ほどして、深刻な本体が明かされた。
「指が動かないのよ。指がだらりとしてしまっていてね、考えたことが伝わらないっていう感じなのよ」
病名は「ロックドフィンガー」だった。腱に神経が癒着して、脳の指令が伝わらない。
直ちに手術が施された。四ヶ月、公演延期の断が下された。
公演延期で手にした四ヶ月を、バッハの新しいかおづくりに当てるのだった。
ロックドフィンガー療養中、白内障の手術に踏み切った。
「わたしは日帰りでいいと思ったんだけどね」
退院の準備をしていたときだった。「お化粧したいんだけど」「いつからできるか、訊いておきましょう」「そうじゃなくて今よ」絶句した。「昨日、手術したのですよ」
立て続けに肋骨を痛めていたが、それをものともせず、『フーガ』部の最後のオクターブ奏法を懇親の気力で弾き切り、室井は87歳のピアニストざまを、見せきった。
土地の分割問題が持ち上がっていた。異郷で未亡人となった弟の妻のことを考えれば、旧居を分断する。
ピアニストとしてあと何年、弾いていけるだろうか。ついに、室井はピアノ室を建て直すことにした。
89歳、室井はハイドンの造形の旅の入り口に立とうとしていた。
実際に新居が建ち、引っ越しをするのは、1年半も先のことである。室井はひたすらピアノ室に籠り続けた。
「門扉のことろでつんのめったのよ。右側の顔から地べたに打ち付け、左手が地べたをついたのよ。手首が動かないのよ……もちろん、整形外科にいったわよ。ひびは入ってるかも知れないが、骨折はしていないという診断。腫れ上がって、痛いわよ……安静にして、晴れが引くのを待つわよ。正月明けにラジオで弾くでしょう」
28日、玄関で室井は指を軽く動かして見せた。しかし、手首はギブスの中。正月になると、指の包帯は第二関節まで降りていた。
コンサートで弾く、シューベルト『111』。
低音部を司る左手の手首が万全でないことから、軽いタッチに終始せざるを得なかったところのあったにせよ、繰り出した音色とペダルのテクニックの相乗効果によってホールを満たした響きは、豊穣の一言に尽きた。
新居は、室井のこれからの生き方に即した、とてもプレーンな造り。
30平方メートルのピアノ室はレモンイエローで統一された空間の、まぶしいほどの明るさ。
「わたしは、あと十年は生きると思う」
室井は、とにかく痩せた。背中上部のラクダの瘤のように盛り上がった筋肉のを見つけた聴衆は、言葉を失った。
ピアニストはピアノの椅子に腰かけた。高さは低めだ。そして両手が鍵盤に……
『エリーゼのために』の出だしの旋律を奏でる右手の手首が、俗に鎌首をもたげた蛇のように持ち上がったのだ。室井で聴いたことのない、立ち気味の発音、そして鮮明な音色は、『エリーゼのために』の愛らしくも流麗な音楽の流れを堅くして、モーツァルトの『アダージョ』の冒頭の響きにも匹敵する、怖い物語を展いた。
90代、大腿骨骨折、誰も気づかなかったが
調布の杏林病院から、室井は大腿骨骨折で手術しなければならないという電話がはいった。庭で水やりをしていたら倒れ、救急車で運ばれたという。
96歳ははたして全身麻酔から目覚めるだろうかと、心配が非常に大きかったが、麻酔から目覚めてからの室井は、それ以上の驚きだった。
翌日の午後、室井はすでにリハビリ室にいた。
室井はリハビリのための転院を固辞した。室井には帰宅を目指させたスケジュールがあった。
個室のテレビの音が大きすぎるという苦情があった。嘘のような話だが、誰も室井の耳が遠くなっていることにわたしたちの誰も気づいていなかった。
退院してから、アンコール曲、CDのために仕上がっていたサティの数曲ならいつでも弾けるまでに、ペダルを踏む足を取り戻した。
日常生活でも、室内では歩行器なしで歩いた。そばには置いてはいたが。
バッハの場合は、手をはなしてペダルで音を保つのではなく、手でちゃんとおわりまで弾いている
室井が赤字で示した『平均律曲集第一巻 第一番』最後の和音の弾き方を思い出す。
百歳近くのピアニストの、音がホールに吸い込まれるまでと、ゆっくりゆっくり鍵盤より離していく手は、今、こうして演奏していること、演奏できることへの思いを表しているように、映るのだった。
100才、暗譜で
百歳お祝いコンサートは、コロナで人数制限。昼、夜の2公演になったが、室井はそれをこなした。もっとも楽屋にベッドを用意してだが。
百歳は、『エリーゼのために』を暗譜で奏でた。
後記
長く生きていると、家族を看取ることになる。兄、母、弟、父。
師や学友、同盟も。家族と過ごした家も。
悲しみや寂しさも、ピアノに取り組むことで過ごしてきたのだろうか。
私は、音楽家の肉体の中に、哲学があるような気がする。
ベートーヴェンであれば、恋愛をして、病、難聴を患って遺書を書き、苦悩しながらも作曲し、そして死ぬ、という、人生そのもの。
ピアニストは音で、作曲家たちのムジチーレンを伝えるのだろう。
室井さんは、作曲家たちの作品を「伝えたい」と、トークコンサートで語り、弾いて、ムジチーレンしてこられた。
高齢になると、背中が曲がってピアノでの姿勢も変わり、手に力が入らなくなる。
力が入らないから、この上なく美しい『エリーゼのために』を奏でられるのだろう。
わたしが観た『月光』は、この1分半のNHK world newsの動画の最後の部分。https://www.facebook.com/watch/?v=897688937468532
>アマゾン↓
《ミュージシャンボディトレーナー新堂浩子》 バイオリン、ピアノ、トランペット、アコギ歴。 趣味は、大人から始めたクラッシックバレエ♪ 詳しくは ≫プロフィール |