ショパンコンクールに二人入賞する100年前のピアニスト
こんにちは。
ステージに上がる音楽家のためのフィジカルセラピスト、進藤浩子です。
10月は、ショパン・コンクールの話題が持ちきりでしたね。
ちょうど、2016年に亡くなられた中村紘子さんの本を読んでいました。
『ピアニストという蛮族がいる』中村紘子 文春文庫
この本から、日本人ピアニストの初期の方、久野久(くのひさ、1886〜1925年)さんのお話です。
幼児期に足を怪我をして片脚に障害を負い、尋常小学校に上がるころ親が死に、京都の叔父の元に兄と共に引き取られます。
叔父の勧めで、久さんは琴、三味線、長唄を学び、13才の頃には師範の免状を許されるほど上達します。
東京帝大に入った兄は、これからは邦楽よりも洋楽という考えで、久さんは15歳の時に東京音楽学校(今の東京芸術大学)に入学し、そこで初めてピアノを学びます。
音楽で生きていくしかできないであろう彼女にとって諦める道はなく、譜面すら読めないところから、火を吹くような猛練習だったそうです。
まだピアノを弾く人が少なく、お金持ちのお嬢さんに限られていた時代。
久はやがて、東京音楽学校教授となります。
片脚が不自由な彼女は、耳が聞こえなかったベートーヴェンに、限りなく親しみの情を感じていたといわれます。
日本を代表するピアニスト、ベートーヴェンの伝道師として日本だけでなく朝鮮や満州でも演奏します。
1923年、36才のとき、文部省の海外研究員としてベルリンに渡ります。
しかし、常に和服姿で過ごす、スープを音を立ててすするなど、当時、必死の努力でヨーロッパ社交界に仲間入りしようとしていた代理大使たちの目には、久は「国辱」とさえ映ったのでした。
滞在数日にして、ほとんど追い出されるかのように、久は公邸から締め出されてしまいます。
のちにウィーンに移るも、憧れていたウォーンの教授から「運指法はめちゃくちゃだ」。
基礎からやり直しを言われ、1925年ホテルの屋上から投身自殺します。
中村紘子さんいわく、「ピアノをぶっ叩く」ような奏法で、頻繁に左足のペダルを踏んでいた。
また、久さんは常に指先のトラブルに悩まされていて、彼女の指先は常に割れ、演奏中にキイが血に染まることもよくあったらしいと。
38才。
とても、悲しい生涯です。
明治から大正へかけての時代は、まだ封建制度が根強く残ります。
芸事の指導は、非常に厳しいもので、手をあげられるなんてざらでした。
女性で身体に障害を抱えて、ピアノを好きで始めたわけではなかった久さん。
彼女が、生きていくために闘わなければならなかったこと。
そして、生きていけなくなってしまったこと。
西洋から音楽が日本に入り立てて、ピアノでの技術や指導が未発達な時代にピアニストになった。
国や言葉の壁、文化の違い。
それから100年弱の間に、中村紘子さん始め、多くの日本人が音楽留学したり、世界的なコンクールで賞をとれるまでになりました。
2021年のショパンコンクールでは、男女お二人が日本人で入賞されるという快挙。
世の中は良くなってきたんですね。
今の状況が当たり前、普通に感じてしまいますが、この先ももっとよくなっていくはずです。
本には、ルービンシュタインやホロヴィッツなど亡くなられたピアニストのお話が満載。
旦那様が小説家でいらっしゃっただけあって、読みやすく、かつ面白いです。
ショパンコンクールを始め、国内外のコンクールの審査員を務められた中村さん。
ご自分のことは、どうお書きになられるんでしょうかね。